どこでも何でも結果

 このへんから手伝いが始まる(先日)

 四十数年前がよみがえる。しかし今は刈り取り+結ぶが機械で一瞬。ヒトの5、6倍の速さ、疲れもその分少ないし(この赤い機械は結ばれた稲を架ける場所まで運ぶもの)(刈り取りは先日終わっているのでココにはもうない)

 おじさん状態の自分は後日の足腰を心配しながら、一応終わる。

 しか〜し、不良が発生、部分組み直し(たれさがっている)

 …修復を試みたが竿部分がヒビ折れで、結果この部分は空白のままにする。
(写真はないが稲を架けたまま将棋倒し状態もあった〈この時は笑ってしまったが写真を撮る勇気ナシ〉足組み制作など兄嫁の父の長年の経験もそろそろ…)

 田植えから収穫寸前までの82才の作品。
ここでも過程より美味しいかどうかの結果で作品は決まる。
刈り取りながら同時に籾(もみ)にする完全機械化より日干しして時間をかけたものがおいしい、高価だとか。
農家でいえば減反政策の時も、今回のTPPのことも。昔からだとは思うが農家も作るだけではなく政治、世界の動向にも視野がいる(政治の保護というワナも尽きている。今度は当事者たちの脱皮にどのくらい時間がかかるだろう。ある意味次世代かもしれない)

今更言うな、全ての職業、仕事において「毎日が過渡期」であると。そのことに考えるチカラと伴う行動、一つの才の分かれ道でも。

今日は
深夜便から続き、朝と昼に親爺と母の課事を入れて1日mytimeの予定。

 「アサ〜」ってなつかしい、天才的谷岡ヤスジ氏を感じた。